尊厳死を考える

 ニュースや新聞に出てましたが、どっかの病院の外科部長が末期の患者の人工呼吸器を取り外して、最終的に患者は皆死亡したそうですね。ニュースを聞いた限りでは、家族の承諾は得たが、患者本人は意識がないので同意を得られず、患者本人の同意を得ていない以上、問題であるとかないとか、という話でした。
 さて、自分が病気や事故などで意識不明の重体となったとき、そしてもう回復が見込めないとき、一体どうして欲しいのか、って考えると、積極的な延命治療は不要なんじゃないの、と思うわけです。これは、私の場合であって、もちろん可能な限り命を延ばして欲しいって人もいらっしゃるはずです。意識不明じゃなくても、映画『ミリオンダラー・ベイビー』の女性ボクサーのように、もはやベッドから降りることもかなわないような状況になったとき、自分はどういう選択をするのか。今が元気だからといって、こういうことを考えることが丸っきりムダとは思いません。
 私はサイフにドナーカードを忍ばせています。自筆のサインをしたのは97年です。脳死あるいは心臓停止のとき、若い私の臓器なら、病気などで使えないなどの場合を除けば、きっと誰かの役に立つかもしれない、誰かが必要とするのではないか、と考えたからです。けど、別にものすごく深刻に考えたのでもなくて、もはや自分で呼吸もできないような状況になったときは、私が自分だけに限って考えるならば、もう死人になっているのと同じであり、日本では死体は火葬されるわけで、どうせ燃やされるならば臓器だけでも残って人の役に立ったらいいんじゃないの、という程度の考えです。でも、今もその考えは変わってません。
 このドナーカードは、可能な場合は家族のサインも書いてちょ、というものなので、母親にサインを頼んだところ、断られました。親にしてみたら、自分の子供が自分より先に死ぬことなど想像も出来ないことだし、まして、脳死は死なのか違うのかということは人によって捉え方が違うわけで、まぁ賛同してもらえなくても仕方のないことなんでしょう。でも、私のサイフには黄色いカードが忍ばせてあるのです。
 自分の死は死んだときにどうなるかなんて分からないこともあって、比較的冷静に考えられるような気もするのですが(別に積極的に死にたいわけではありませんよー。あたしゃ生命線長いんですよー。)、逆に身内の死に対しては冷静になれないかもしれません。果たして、本人が生前にそう望んでいたことを知っていたとしても、積極的な延命治療をしないように判断できるのだろうか。人工呼吸器を外すように、医者に言えるだろうか。ほとんど助かりませんよ、と言われても、最後の最後まで奇跡を待ってしまうんじゃないだろうか。
 こういう、尊厳死とかいうのは、一人ひとりが出す答えが違っているだろうし、正解なんてない話なのかもしれません。