その後の花梨

 今週初めあたりは痛がっていた花梨ですが、今週末は落ち着いてきました。が、痛みが治まると、爪をひっかけないように固定するために巻いている包帯が気になるらしく、舐めたり噛んだりして外すワザをマスターしました。そんなワザを習得しなくても、よろしい。
 包帯をナメナメ・カミカミ始めると、私の怒号が飛ぶわけですが、花梨は私が大きな声を出すと、お尻を向けて座ります。今まで花梨を怒ったとき、このお尻を向けてオスワリをするというのが、
「まぁまぁ、いいから私の肩をお揉みなさい。」
という意味かと思って、プリプリ怒りつつも手は花梨の肩や背中をマッサージしていました。そういうことをされるのが好きな犬なので、あんまり疑問に思わない今日この頃だったのですが、これがものすごい間違いだったことを知りました。
 あるサイトで犬関連の記事を読んでいたら、犬は飼い主が怒っていると察知したとき、わざと遠回りして近寄ったり、あるいは花梨のようにお尻を向けたりするのだということが書かれていました。犬の社会では、こういう行動は、
「まぁまぁ、あんた、落ち着きなさいよ。」
と、相手にクールダウンを促す意味があるのだそうです。ししし、知らなかった!つまり花梨は、
「まぁまぁ、たじんこ、あんたはプリプリと怒りすぎ。」
って言ってたわけです。が、私はトンチンカンなことに、花梨の背中を揉んだりさすったりしていた…。
 まぁ、花梨も包帯なんぞ巻かれたら歩きづらいし、なんか消毒くさいし、楽しいわけはないんですが、何せ、今また同じ場所を引っかけたら大出血するかも分かりませんので、こちらもピリピリするのです。
 しかしまぁ、私は小さいころから犬や猫が割りと好きなつもりで、詳しいつもりでもあったのですが、実は全然分かっちゃいないんだ、ということは最近になって分かってきました。子供のころは、とにかく常に動物を飼っていたいと思っていましたが、今は、私みたいな人間が動物を飼ったら良くないのかもしれない、と思うようになりました。花梨のことは最後の最後まで一緒にいるつもりですが、やがて花梨が私の元を去る時がやってきて、母もいずれは居なくなって、私一人になったとき、状況が許したとしても、もう犬や猫は飼わないかもしれません。状況が許すとき、というのは、経済的とか居住的にペットを飼う環境が整ったとき、という意味です。
 大学時代に飼っていた猫が亡くなった時も、私にしてはものすごく落ち込んで、もう二度とペットは飼うまい、と決意したものの、花梨を飼っているという人間ですので、いい加減なもんですけどね。でも、花梨を飼うとき、その飼い猫のお墓(自宅の庭に埋葬したので)にこっそり
「あのときは悲しいあまりに、お前(猫のことです)で最後にするって言ったけど、あれは猫を最後にするって意味だから。今度は犬だから。猫は本当にお前を最後にするからさ。それに、今度の犬は、お母さんがどうしても飼いたいって言ったんだからね。ねねね。」
って謝ったっけ。
 …って感傷的になっている今、隣の部屋から聞こえてくる、花梨のかすかな鼾。へ、平和?